志望の動機 なぜ滑空部か
私は、卒業の暁には2級通信士の免状を授与される、そして船舶の無線局に勤務することが出来ると言う説明に胸を躍らせ昭和19年4月新潟県立第二新潟工業学校電気通信科に入学した。校舎は新潟商業高校の洋式木造建築である。この学校は県立新潟工業学校が既に存在していたので『第二』という言葉がつけられた、という説明を覚えている。すなわち創立して初めての入校生であるが、1学年上の生徒はこの学校の前身という県立新潟商業学校から第二新潟工業学校2学年への転校という措置がとられたようである。したがってその生徒たちの工業学校としての教科はなにから始まったのか私はよくわからない。一部の科目は私ら1学年と同じものもあったが、他に異なる学科もあったのではないかと思う。1年生の工業科目は電磁事象、機械大意、機械製図、基礎木工(木型を作るためと言われ他の科に入っても必修)などがあり一般理系科目は物理、化学、数学、幾何などがあった。柔道と剣道は正科であり、部活動の部としても剣道、柔道の各部、テニス〈庭球〉、バスケット、陸上、体操、水泳、相撲などのほか、園芸、音楽、書道、弁論などもあった。軍事的な部としては銃剣道、グライダー〈滑空〉がある。当時、私が所属していたグライダー部の上級生は、よく後輩に対してグライダー〈滑空〉がある。当時、私が所属していたグライダー部の上級生は、よく後輩に対してグライダー部に入っていると、教練の成績は良く評価される、そしてその評価は志望の軍関係学校にそのまま届けられるということを何度か伝えていた。そしてそのことは事実であった。
私が滑空部に入ったのには理由がある。一つは、関屋浜で滑空訓練を何度も見ていたから非常に憧れが強くなり、グライダー部に入りたいと思うようになっていたからである。入学して間もなく、一部の生徒が父兄や先輩から聞いたのだろう柔道部が良いらしい、という。希望が整理・審査される時が来たので、私は良く考えて、第一志望柔道部、第二志望滑空部として希望を出した。主任の田巻二郎先生は、「君は柔道部でなく、グライダー部に入れ」と微笑で云った。微笑の意味は何だろうと今でも忘れない。志望が入れられないのは一応の不満であったが、異論を唱えたりすることは不可であり、担任の声に逆らってはいけないと咄嗟に思ったのだろう、「わかりました。グライダー部に入りたいです。」と答えなおした。前述の上級生の話は入学後かなりたってから聞いたのだが、グライダー部に入って良かったと思うようになるのに時間は要らなかった。これがその後航空界に入ることが出来たつながりの第一歩になるとはその頃「空の華」と散ることしか考えていなかった私が知るわけもなかった。しかし田巻先生がそのように言われる理由は一体何だったのだ、という疑問は頭の隅に入ってしまい、間もなく忘れていたが、本稿を書くに当たり図らずも思いだしてしまった。
入学すると多くの仲間ができた。この学校は学区制の適用がなく、広く県下一円から入学生が来ていた。白山浦で下宿をしていた一年上の柳沢さんは佐藤の両津から来ていた船主の子息であった。「引いてはいけない」という初級練習機の操縦かんを高く上がりたかったのだろう引いてしまい、砂浜を飛び越えて海へ着水した。柳沢さんは自分で縛帯をはずしていたが、濡れた機体を運ぶのは大変であった。父親が船の機関長や高級船員などの子弟もいた。皆明るく屈託のない性格の者が多かった。身内に海事関係者がいるということはあらかじめ入学の選考基準で選考の対象になっていた。これは同校のみならず、各商船学校等も同じで身内に関係者がいないということははなはだ残念なことと思ったが、成績でハンディキャップを補うしかなかった。同じような目的を持ち、似たような将来の希望を抱き、楽しみも苦しみも、辛さも一蓮托生だ、という少年たちはその明るさと大らかさで強い絆を持っていた。教練に、座学に、海洋訓練に励み、そして後にはそれが当然になった銃後(戦場に対して戦場になっていない国内の総称)の守りの一翼を担う運命を辿る戦況の厳しさを少年なりに感じなければならなかった。