幻の「幹部軍人養成学校」
~part4~

陸軍兵士の手伝い

 昭和20年8月、ある日学校から突然の連絡がきた。「今夕00時に連隊区司令部前に集合せよ」という内容だ。同司令部は新潟市の東中通と学校町の境目にあった。記憶では10名ないし20名の生徒が集まった。「当市に特殊の敵爆弾(戦後この爆弾は原子爆弾であったことが明らかになったが、当時はただ特殊という言葉が使用された)が落とされる。市民はすべて新潟市から退去しなければならない。したがってここの交差点は重要な分かれ道になる。内野・弥彦方面に向かいたい者は、こちらの通り、亀田方面に向かう者はこちらの通り、関屋方面はこちらの通り、の様に区別を教えられた。既に陸軍の兵隊がその指揮にあたっているが、人手は足りない。それを君たちに手伝って欲しいのだ。見回すと顔見知りの少年軍属もいた。見よう見まねで、道案内の手伝いを始め、うまく遂行した。将校から「ご苦労さん」とねぎらいの言葉をもらって解散したことがある。すでに真夜中と記憶している。リヤカーや荷車に荷物を積みあるいは背負って歩き、幼児の手を引く市民の姿は忘れられない。軍が我々を信頼し、生徒も軍の指揮に従うという連携には嬉しい気持ちと誇りが湧いてきた。


英語の授業

 一週間の授業時間の中で、もっとも多かった科目は教練であった。二番目は現在の人は驚く人も多いだろうが、英語であった。月曜日から土曜日まで六日間、毎日一時間の授業があり、そのうちの一日何曜日かには一時間プラスされて一週合計7時間になっていた。我々の世代の人々は、英語は敵性語だから習わなかった、という人も多いが当校では必須科目であり教師も生徒が卒業後役立てるという目的で力が入っていた。授業の中には会話形式の学習も取り入れられていた。たとえば“How do you spell apple”に対しては“I spell it; a, p, p, l, e, apple.”と答える。文字だけ見れば難しくないかも知れないが、先生の発音はイントネーションがあり、語と語の連結があり、発音は和製英語のそれではないから聞き取りにくい。
私は I spell it…を『アイスペロリット』(氷をペロリと食べる)と覚えたら褒められたことを覚えている。級友に話すと大笑いするが、「わかりやすくその発音がいいね」ということになる。答えるときは起立して背筋を伸ばす。授業は Good morning. などの挨拶で始まり Sit down. で着席する。終戦後、進駐米軍が新潟市にも駐屯し、市の公会堂が接収されて軍政部がおかれるが、その英語の先生は米軍の通訳で常勤され授業からは一時離れられたが残念であった。戦後暫くたってからその先生に二度お会いしたが、何十年か経てもなお先生のお名前を切貫幸雄先生と思いだせるのはどんなに先生の名が頭に刻まれていたかを表すものである。先生は青山学院のご出身と聞いていたが、発音も良いし英語教師に向いていた方だと、尊敬せずにはおられない。
 このように学科の中でもっとも興味があり、且つ熱心に勉強したのは私の場合英語であった。戦後この英語を役立てる職業に着くことが出来た基礎は当校の英語教育であったと言えよう。もちろん私は戦前・戦中初期の同教育については知ることが少ない。しかし丸善洋書部のある方が、「以前〈戦争前〉こちらに新潟商業卒業の方がおられ、その方は英語が堪能でお客さまからも喜ばれていた、という話を聞いたことが有ります。新潟商業は英語の教育が非常に良いのですね」と私に云われたのは忘れられない。驚いたし、また、嬉しかったのである。

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