二年生になって英語担当が代わった。東京商科大学(現在の一ツ橋大学)を出られ、学生の頃、後の宮沢喜一総理(当時は東大生)も居られたそうだが一緒に日米学生会議に参加された先生で、アメリカや船旅の話も良くされた。確定的なことは生徒たちには知らされていなかったが、陸軍を除隊して旧新潟商業へ着任されたということだった。階級は陸軍少佐という噂であった。つまり、軍事教官よりも階級が上であるが兵科はわからない。品田先生は英語が達者で授業もおもしろく評判が良かった。陸軍の時は満州への派遣部隊を指揮して、同じ新潟県長岡中学出の名ヴァイオリン奏者鰐淵賢舟さんは同じ部隊に居られたそうである。「鰐淵はヴァイオリニストだからね、満州の厳冬は指を大切にする鰐淵にとっては大変なのだ。おれは柏崎中学、鰐淵は長岡中学の夫々出身であったし、彼が炊事当番の時、皆の食器洗いをするのに冷たい水では手を痛めるだろうと思って、俺が代わってやっていたことがあった。今でも俺に感謝しているようだ」という話を聞かせて下さったことがある。「なんて偉い人なのだ。佐官の隊長がねー」「部下思い、生徒思い」、そして正義感に溢れる先生であった。20年の春先生は再び現役で応召された。しかし戦後無事帰られ教壇に立たれたときは生徒一同大変喜んだ。しかし、英語が非常に堪能な先生を占領軍は教壇に長くは立たせなかった。軍政部の通訳に招かれた。時々帰校されたが、よもやま話の際、「辞書は何時でも持って歩けよ。俺は軍政部で働く時何時もポケットに辞書を入れて持ち歩いた。こういう風にナ。」と左尻ポケットからコンサイズ英和を出して見せた。これは良く覚えている。教科書はやはりハードカバー、中身は良質の紙の立派な本であった。今でも級友たちはその本の良さ、教師も素晴らしいことを話題にする。第一課は Spring has come.(春が来た) A gentle wind blows and streams are warm.(そよ風が吹き、小川の水は暖かい)というような文であった。いまでもその先を暗記していて、 The Sun beams from the sky.(太陽は空から光を放つ)とつないで言える級友がいる。中頃のレッスンには一人の訪問客がスミス氏の邸宅を訪問する。遥かに遠い記憶で人名等若干違うかもしれないが、斯様な会話もあった。 Mr.Brown knocks the door.(ブラウン氏は玄関扉をノックする) A maid appears.(女中が出てくる) She asks Mr.Brown “What name shall i call you, sir?”(お名前をお伺いしても宜しゅうございますか)なかなか丁寧な表現で、きちんとした礼儀正しい聞き方である。上記の Spring has come. のように2年生になったとたんに現在完了を教えていた。また、客の名前を尋ねるのに What name…?というのは戦後のアメリカ英語では聞いたことがない。当校で使用していた教科書はイギリス英語や習慣を重視していたものであったのである。まして、戦後耳にした Watcha name? の如き表現は、アメリカでも中流階級以上、または教養のある人たちが使う表現ではない、ということは生徒の常識として心得させられた。また、戦後の記憶になるが、米軍兵士がどっと我が国に駐留軍の構成員として入ってきたが、「このように、沢山の下級兵士が入って来ると品格ある英語の話者や大学の教授たちは、英語教育が低俗な環境の中で混乱に陥る」とことあるごとに嘆いていたのを見聞した。良い英語を学んで来てよかった、とは級友たちが異口同音に云っていた言葉である。さらに後年、思い出を語って級友たちは、「悪い英語が良い英語を追い出すというのは、まさにグレシャムの法則(Gresham’s law「悪貨は良貨を駆逐する」という法則)が当てはまるのだね」と大笑いする。
昭和20年に戻るが、2年のあるレッスンには、笑い話が出てくる。夜一人で道を歩いた少年が犬に追われて街灯の柱を駆けのぼる。下では犬が吠えるしこれ以上登るに登れず降りるに降りられず、という絵入りの話だった。運よくそこへ仲の良い友達が通りかかった。助けようとしたが、柱を見ると張り札があって、“Fresh Paint!”と書いてある。これじゃ柱を登れないと、二人は大笑いしたという話である。当時、米語のことは良く分からず、数年後進駐軍の将校とそんなことを話していたら、その話の中でアメリカでは street light(街灯)がlamp postに代わって用いられ、fresh paint(ペンキ塗りたて)はアメリカでは wet paintと言います。と教えてくれた。(因みに取り付けられている照明器具と柱を一組として(英)lamp post(米)street lightという)。
2年の教科書を全部暗記すれば外人と話しが出来る、ということも云われていた。勤労動員で行った新潟港中央埠頭の荷役作業中に数日会ったオーストラリア、カナダの俘虜と話が出来たのはこの優れた教科書のお陰である。俘虜を監視する係員から俘虜たちとあまり話をしないようにと何度も注意されたのは、監視役も認めるほど我々の英語が良く通じていたという証明になるであろう。
品田先生は後に柏崎商業高等学校の校長を勤められて退職されたが、お宅は松波町の私の親友の宅から斜め向かいにあり東京から帰京した時一・二度お伺いして色々楽しいお話をさせて戴いた事がある。