インプットと思考とアウトプットについて

人間の本質はメディアとしてあるのではないか。本を読んだり、人から話を聞いたり、自己の外部から情報を収集することをインプット作業とブログを書いたり人に話したり、何かを表現するアウトプットとしての作業によって、人は「自分の好きなものをいかに広められるか」という競争をしており、本体は人間ではなく、その文化そのものがウイルスのように人間に寄生して繁殖する闘争をしていると捉えられるが、「考える」とはその中間にある行為として、インプットした情報を自分の中でアレンジしたり、純化していくことだろう。そこで人は「わからない」という外部を探究してしまうのは自分以外の外部と一体化したいからかもしれない。 世界の人それぞれの世界観を持つバラバラな状態が「楽しい地獄」だとすると、世界が世界観を共有し一体化するのは「苦しい天国」と例えられるだろう。

そこで世界が外部に出ようとする力は別の世界という他者へのアウトプットまたは他者からのインプットであり、構造体は拡張し続け、別の構造体に繋がろうとすることが大事なのかもしれない。
しかし、地球の資源や大きさは有限であるため、世界が一つに一体化すると宇宙やオカルト的なファンタジーという外部を求めなければならなくなってしまうので、ボクとしては外部の可能性に期待するのではなく、地球規模や日常的規模で考える必要があるだろう。そこで地球の中に複数の共同体が別々に暮らし、お互いに他者としてアウトプットとインプットをするという関係性によって成り立たせるのが良いのではないか。
コミュニティにも政治にも言えることだと思うけど、「軸が一つあってそれに沿って構造体が作られているという状態」と「構造体に統一性がなくバラバラになってる状態」があると思う。この二つのどちらかが良いか正しいかではなく、組織や共同体としての構造の中で関係性を互いに結び合おうとすることが大事なのかもしれない。

キレイに完成された構造体はどうなるかというと内部で完結するか外部を求めるかのどちらかになるだろう。繋がった構造体の中で矛盾することや誤解があるというのは人によって不安要素であると同時に安心要素にもなり得る。そこには可能性があるが、可能性を信じることはギャンブルのようなもので期待をしすぎるのもよくないかもしれないが、可能性を生み出すことが「思想」であるだろう。
生活と趣味と学問と思想の4つの関係性の中で生活(労働)という動力源によって社会が構成されていると捉えれば、それぞれ生活=生存・趣味=欲望・学問=理解・思想=意志の四つに分けてボクは捉えている。
これらは生活と学問が結び付くこともあれば、趣味と学問が結び付くこともある。

生活は生きるために必要な行為としてあり、学問は「真理の探究すること」或いは「学んで問うこと」である。
趣味は純粋に楽しむためにあったり、思想はさまざまなものに意味や役割や機能を見出すこともあれば、何かを表現するときもある。

構造体としてのコミュニティの関係性が全て成り立ち、完全な理解という状態を「完成」としたら構造体内で一体化して内部に興味や関心がなくなってしまうので、外部に出ようという欲が発生する。
真理は人それぞれというのがあるけど、自己の真理と他者の真理の関係性が大事で、もしも世界全体が完全に理解し合って一つの構造体になった場合は時間が止まったかのように寂しくなってしまうのではないだろうか。そうすると完全に理解して一体化することが大事ではなく、それぞれの世界観を尊重しつつ、互いに一致する点を見つけて関係性を結ぶ態度が大事な気がしてくる。問題意識の一致する点は抽象度を上げれば多くの人と一致でき、具体的になれば一致する点は少なくなってしまうだろう。

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