お久しぶりで御座います。佐藤です。私の祖父が戦時中、終戦後の学校生活について書き記した文章を公開することにいたしました。日本の戦争と平和についての教育が、今現在どのような形で行われているかについては詳しく知りませんが、私の中学時代は「戦争は酷いものだった、貧しかった、辛いものだった、悲しかった、以上解散」みたいな形で、かなり大雑把というか、繊細さに欠けるというか、そんな教育だったように思います。
当時の猪俣少年は、第2次世界大戦がそんなに悲惨だったのであれば、単純な総括で終わらせていいのか疑問でした。どのような武器が使われたのか、軍事費はどれくらいかかったのか、そもそもなぜ日本は負けたのか、勝っていたらどうなっていたのか、勝つためにはどうすればよかったか、何のために人間は戦争をするのか、平和である必要はあるのか、戦争の意義とは、平和の意義とは何なのか、負けて悔しくなかったのか、二度と戦争したくないのであればどのような政策が考えられるか、もっと深く真剣に考えるべきなのでないかと思っていました。中学校で「戦争は酷いので、絶対しちゃいけないと思います」などの幼稚な発言が教師に褒められるようでは、日本の未来は暗いとしか思えません。
一人の若者が戦中、戦後をどのような雰囲気の中で生活していたのか知ることは、戦争を考える上で価値があると判断したので、公開します。長いので何回かに分けてアップロードします。以下、その文章です。
幻の「幹部軍人養成学校」
[Fact Sheet]渡辺千秋
敗戦の思い
終戦後、多くの生徒及び教員が行ったように、私も軍教育関係の書籍、ノートなど全部を焼却処分にした。現在残っているのは当時の日記帳だけである。その日記を拾い読みしたりページをめくっていたら、「エッー」と驚いた個所があった。七十年前の古い記憶をたどってみた。新潟県立第二新潟工業学校の戦闘帽式制帽につけていた小さなウィングマークの校章の私が描いたスケッチであった。大いに合点がいって長い間のもやもやが霧の晴れたように脳裡を爽やかにした。なぜ帽章がないのか、写真もなくスケッチだけとは。敗戦後存在してはならないものはどんなに大切なものでも廃棄処分にした。これがいたいけない13~14歳の少年がしなければならないつらい事であった。関屋浜(新潟市)の格納庫で涙をのんで分解し遂には破壊した、広い関屋浜の砂丘で20回近くは練習した「初風第1号」と「第2号」初級滑空機の主翼の羽布(ハフ)をそっとポケットに忍ばせて持ち帰ったが、それも目に涙を浮かべながら庭で焼却処分してしまった。
セカンダリー〈中級〉練習機も昭和19年の秋には配置され、やがてソアラー(上級)も到着したが、荷造りの木枠に入れられたまま飛行機曳航で上げるのか、ウインチかと生徒が思案する中講堂に置かれて冬を過ごし春を迎え、折角の希望も果たせないうちに終戦になった。敗戦の挫折が一挙にのしかかったつらい、つらい時期であったが苦しみに耐えて気持ちを抑えなければならなかった。これ程まで自分の身にそして心に受けた衝撃は大きい。しかし栄えある校章のスケッチを目の当たりに見て気持ちを入れ替えた。
県立第二新潟工業高校は、やはり(私が頭の奥に秘めていた母校に対する考え方でこうあるはずであった、という考え)軍が極秘のうちに構成した将来の飛行機搭乗員養成の学校であったのだ。一般教員も生徒も誰一人として表だって云ってくれた人はいなかったはずだ。純真な少年時代には考え得ることではないが、今にして思えば軍と学校の間に「密約」如きものがあったのかも知れない。ごく一部の教員がその生徒の教育養成にあたっていたのだ。トップにあったのは学校長(当時は川上由喜先生、東大法・政治学科、勲2等:注:当時勲2等は医大学長、師範学校長が2等または3等)ではなく軍事教官であったと言われている。これは戦後、当時の生徒たちが云っていることでもある。もちろん川上校長もいくらかの事は内うちに知らされていたであろう。軍事教練時間の豊富さ、教練座学の綿密さ、多くの元生徒がその記憶について誇りをもって語る一般他校に例を見ない実践的英語教育の優れた内容と豊富な英語授業時間、上級生がひそかに伝えてきた軍志願生徒に対する優遇性などを考え合わせると合点が行くし、その一員に選ばれていたことについて心中強い誇りを感じる。