幻の「幹部軍人養成学校」
~part3~

戦時色の中の学校と軍事教練

 昭和19年の世間は春ごろから戦時色が濃くなり、「聖戦」をいかに切り抜けるかということが戦時の銃後における生活の根本であった。学校には「戦時学制特別措置法」というような法律が布かれ、一般学校は学徒動員、軍人志願奨励の方針が強行され学校教育よりも勤労奉仕、または軍関係学校などに志望を切り替えることで以前の中等教育中心の考え方が「聖戦第一」に変わっていった時期である。まだ幼いと言ってよい数え年13~15才の少年であったが、戦前の平和な世界とは全く異なる世相はいち早く感じ取った。しかし、遊びたい笑いたいという少年の本能的な気持ちは級友たちの多くが失うことなく持ち続けていたと思う。学科というのは平和な戦後生まれの人には考えにくいかもしれないが、学科と言えば教練を指すくらいで教練すなわち軍事教練はもっとも厳しく教えられた。教練の指導教官は入校当初は配属将校と呼ばれていたが、間もなく軍事教官と呼ばれるようになった。参考までに、旧制高等学校の配属将校は少佐または中佐、将来の軍医〈軍の委託学生〉を多数抱えている新潟医科大学のそれは中佐または大佐であった。当校の員数は陸軍から派遣されている現役一名、予備役一名それぞれ陸軍少尉であったが、予備役の教官は昭和20年はじめ現役に復帰した。それに加えてバリバリの士官学校出身の中野陸軍中尉一名の合計三名であった。生徒数が少ないのに軍事教官が三名配置されているのは余程教練等の軍事教育に力を注ぎたかったのだろうと推測できる。この中野中尉は在任中に南方行きの輸送船の兵員輸送指揮官として乗り組み前線に赴くが途中で戦死されたとの公式発表を聞いた。23才という話であった。登校途中で一回注意を受けたことがある。雨天で洋傘をさし、2~3人で歩いていたが、丁度その教官がカーキ色の雨合羽を着て自転車に乗って我々の横を通過しようとした。途端に右端にいた者が、「歩調トレ!敬礼!」と号令をかけたが、傘は差しているし、横列であるし、両手ともふさがっているし、挙手の礼などできはしない。学校へついて一次限に教室で注意があった。「まず雨天に傘をさしたまま敬礼しようとしたこと、これはいけない、まず傘をたため。次に敬礼の号令をかけろ。次からはこのようにせよ。」
ということだ。口頭だけの注意で済んでよかった。しかし悪いのはこちら。以後雨の時は注意をしている。教練の教科は「気ヲ付ケ」「休メ」「並足歩行」「正常歩」「歩調取レ」挙手の敬礼から始まり隊列行進・・・だんだん進んで分隊訓練、部隊訓練などに入る。
 このころ、隊列を組んで校門を出ることがよくあった。行進中、ご家族に戦死者が出た家の前には軍階級、氏名、戦死の場所、年令などが書かれた門標が出ていることがある。すると、突然「歩調トレ!」の号令がかかる。(歩調をとるというのは、両足を交互に膝の高さまで上げて歩く隊列行進の歩き方の一つである)号令は隊列行進を指揮する生徒がこれを発する。「かしら、右!」「敬礼!」門標には、氏名、軍階級、戦死地域、享年、などが書かれている。「だれだれ、ブーゲンビル島沖にて戦死、17才」等の内容である。きっと海軍を志願した少年兵にちがいないなどと考え冥福を祈る。通過すると、ようやく「なおれ!」の号令が響きわたる。こうして一連の短い慰霊は終わる。
 また、野戦訓練では「匍匐前進」「展開訓練」などがあった。(これらの教科内容は私の日記帳に書いてあったものを参考にした)展開訓練では校庭でも行われたが、野外即ち海岸の砂丘でも行った。教官からひどく叱られたことがあった。5~6人の組で教官の立つ指揮所から数百メートル離れた場所に展開し、教わったとうりに1列または2列の横並列を取った時だ。隣の生徒がだじゃれを云って笑いこけた。「笑っている奴!笑うな!真面目にやれ!」である。展開を終えて元の隊列が組まれると早速ビンタが飛んできた。笑った奴はみんなやられた。そんな時は謝る言葉などいらない。ほほをたたかれるのをこらえるだけである。笑ったのが悪いのだから。教練で教官をこわいとか、訓練が辛いなどと思ったことは一度もなかった。むしろ机での座学より兵隊ごっこ、戦争ごっこで遊んだ幼時を思えば、はるかに正式で程度の高い軍事教練という訓練を受けられることが嬉しく感じられたのである。

 柳川教官については忘れられない思い出がある。昭和20年〈終戦の年〉の春であった。学校に比較的近いところに住んでいる生徒が教員とともに2名ずつ宿直に当たることになった。緊急の場合の伝令役を務めるためである。ある夜なかの事、宿直の吉田先生〈数学〉は「おい、渡辺、起きたか。変な音が聞こえるな?」もう一人の生徒も目を覚まして「何の音でしょう」という。鉄の材料か何かを引きずるような音に聞こえる「渡辺、すまんが行って見てきてくれ」「はい、わかりました」灯火管制下で真っ暗だから、懐中電灯を持って音のする方へゆく。廊下を這って動く人がいるようだ。懐中電灯を照らして「はッ」と驚いた。柳川教官であった。「教官殿、どうされましたか、どこへ行かれるのですか」不審な音の源は柳川教官の左長靴の拍車の音であった。「便所へ行くのだ」「手伝いましょうか」「いや、大丈夫だ。一人で行ける。俺の左の膝に敵の弾丸が入っていて、夜になると痛むのだ。俺は大丈夫だからお前はもう戻って寝ろ」教練の時は厳しいがなんと暖かい言葉なのだろう、私は有難くて涙が出そうになった。「わかりました。戻ります、しかし無理をなさらないで下さい。何かあったらすぐお呼び下さい」私は少年ながら精いっぱいの言葉で教官に申しあげた。旧制新潟商業の卒業生で小野寿一郎という陸軍大尉の方がおられる。復員されてから戦場で亡くなられた部下の家を一軒一軒訪ねて霊を慰められたという方である。部下思いの精神は自らの尊い体験によって身に着くものなのかと、少年ながらに感動詞たことであった。
 柳川教官はじめ各軍事教官、学校教職員は総出で準備し、生徒も訓練に励んでいたある秋、将官の査閲が行われた。官職名は思いだせないが、この少将は仙台の師団から来られた方だと思う。
 非常に厳粛でかつ元気横溢の査閲期間であった。このように将官が行う査閲は、将来軍幹部になる生徒たちの評価がなされる重要な行事で学校側も真剣になるのは当然であった。陸、海軍を統率される天皇が在任され、教育勅語、軍事勅諭の実践にほかならないからである。将官が最後に講評の言葉を下さるが、激励の言葉でもあった。

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