8月6日夜、東京都世田谷区を走行中の電車の車内で36歳の男が無差別に人を刃物で切りつける事件があった。
こういう事件があると、まず犯人の生い立ちから特定し始める人間が現れる。
母子家庭だったんだとか、大学を中退していたようだ、とか。全く意味がないとは思わないが、そんなことは犯罪心理学者の仕事であって、直近の彼の生活様式に関する情報のほうが我々にとっては大事だと思う。
「クソみたいな人生を送っている」「幸せな人間を見ると憎い」というようなことを捜査関係者には供述していたようである。幸せそうな連中が許せないから殺そう、と思うのは全く理解できない話ではない。決して犯人を擁護するわけではないが、この競争社会においては誰でも没落するし、その立場になり得るという視点を持ってない人間の方が怖い。
こんな奴はすぐ死刑にしたほうがいい、と簡単に言う人間は経済的、文化的にマシな生活を送っているのではないか。自分はいつ彼のような者になるかわからないから、すぐ死刑にしろなんて安直に言えない。
社会が生み出してしまったモンスターかもしれない。本当にただ頭のネジが外れているだけなのかもしれない。ただ秋葉原通り魔事件でも指摘されていたことだが、格差は間違いなく拡大している、それは恋愛格差、文化、情報的な格差、経済的な格差、生まれの格差、環境の格差、それらが複合した格差。そしてそのような社会を放置しているのは我々人民である。そのような社会を下支えしている。
いざ大事な人間が殺されてから、勿論加害者を庇う気はさらさらないが、自分達は絶対に悪ではないと、どの口が言うんだろう。自分達が勝っている時は万歳かもしれないが、いざ負け組となって助けてくださいでは筋が通らないのではないか。
これを社会問題と捉えるか、ただの頭のおかしいオッサンが暴れただけと捉えるか。いずれにせよこんな事件これからどんどん出てくると思っている。このような無差別テロと格差問題を簡単にデータもなく結びつけるのはどうかと思うが、人間の心理としてそうだろう。自分だけが不幸だ、何故あいつらだけ幸せそうなんだ、呪ってやる、と思う人間が現れるのはごく自然に想像できる。
日常的に刃物持ってる奴なんてそこら辺に普通にいたりするし、誰がいつ復讐者になるのかは誰にもわからない。特に都市部は資本主義社会の帰結として人口が集中しており、人間の嫉妬・怨嗟を生み出しやすく、無差別攻撃を効果的に行おうと思えばこれ以上ない環境である。リスクしかない。ただいずれは地方もわからない、コミュニティが徐々に死滅しており、お隣さんの名前すら知らない家庭も増えてくるだろう。
では、完全な監視社会にしよう、という話になる。無差別テロのない社会。おそらく技術的には実現可能だろう。ただその代償として何を失うか。我々はよく考えなければならない。またそれについては伊藤計劃の『虐殺器官』をみてほしい。SFだが、完全なる監視社会化によって何が失われるのかということが描かれている。劇場版アニメが観やすい。
今回の事件でわかったことは、複合的な格差に対するマスメディアの危機意識のなさだけは相変わらずだということだ。